痛みと救済

痛みがなければ覚えられない。特に自分はそうだと思う。

ちゃんと経験してないと自分の中に生きていない感じがする。経験したこと、自分でやったことが自分の判断の大きな部分を占めている。そしてこれは歳をとって波風を立てないような振る舞いをするようになってくると経験できる波がどんどん減っていってしまうことを意味するため、歳をとると経験以外の部分で自分の価値判断を養っていくことが求められる。私はこれができなかった。

 

他人を避けて勉強や楽器みたいな1人でできることをやり続けていた。今まではそれでも結果が出ればなんとかやってこれた。世間的に見れば私は良い大学に入って、そこそこの会社に就職して、仕事をしている。それを非難されることはまずない。でもその実態は、人間性が未熟なままのなんちゃって大人だ。人間関係の中で得るものをことごとく取りこぼしてきた、人として欠陥の多い不良品の出来上がりだ。

 

でも毎日を生きていく中では自分の中に信じるものがないと動けない。欠陥品だとわかっているのに自分の判断をある程度使っていかないとどうにもならない。一度に全てを変えることもできない、少しずつ自分を変えていくしかない。自分が受け入れてもらえるならそれも良い。だが私は今、受け入れてもらえる場所がない。自分を変えるより他ない。

 

仕事や食事、趣味の時間はいい。でもそれが終わると絶え間なく自分に存在意義がないと投げかけ続ける内なる自分が現れる。私は前世で何をしでかしたんだ。どんなカルマを背負ったんだ。この世界の救済はどこだ。