何だってわかる、自分のこと以外は

他者への攻撃性みたいなのがちゃんと自分にも備わっているんだと最近になってようやく気がついた。

その多くは通勤電車の中。例えば満員で鮨詰めの電車の中を見ると大学生がでっかい四角いリュックを背負って2人分くらいのスペースを陣取っている時。後ろからめちゃくちゃ押された時。空いたスペースに入ろうとすると身体をぶつけられて妨害される時。そういうときに自分でも驚くほど衝動的に中指を立てたりしそうになる。

私はこれまで自分にはそんな攻撃性なんてないと思っていた。何かにイライラすることはあってもそれはすぐにどうでも良くなって消えて無くなる。そういうふうに感情を抑えているというのが正しいかもしれないが、攻撃的ではないように思っていた。

でも違っていた。ストレスが原因で感情の制御がうまくできなくなってきたのかもしれない。ちゃんと自分にも他者を攻撃しようとする感情があった。今まで埋もれていたものが、形が視認できる程度に露出してきた。自分の変化に気がついて少し怖くなった。

 

自分は自分だ、自分は社会の中で適応しながら少しずつ変化していくだろうけど本質の部分は変わらないはずだ。そんなふうに思っていた。実際変わってはいないのかもしれない、元々あったものが徐々に現れてきたという可能性もある。ただ今まで見えていなかった性質が現れてきたという部分では自分は確実に変わってきている。今まで理解してきた自分と違う、変化した自分が怖い。

 

「自分をいい人だと思っている。醜悪な自己理解をしている」と言われても仕方がないと思う。私は自分を自分で理解できていない。表層的な部分を見て、それに適当なラベルをつけて整理した気になっているだけなんだと思う。中央が空っぽだから、自分の中に何か柱を立ててそこに

縋って生きるしかなくなってしまっている。今まではそれでうまくいっていた。でも変質していく自分への適応が遅れていき、無理やり合わせるように柱を捻じ曲げようとしていた。でもそこに頼るしかない。私にはそれしかないのだから。

 

自分の幸せって何だろうと考えた時に、私はいつも「他者が幸せであること」だと考えてきた。もしかしたらそれも自分の本質と向き合うことを避ける行為だったのかもしれない。自分の外側のものを自分の柱にすることはとても楽なことだから。でもその柱は結構スカスカで脆い。そしてその軸が崩れた時に立て直すことが難しい。

 

今こうやって考えることができたのも何かの縁だろうか。自分の醜さとかに向き合って、肩肘張らない自分を柱にできるように頑張ってみよう。カッコつけるのをやめてみよう。できるかな?