祈りの話

最近、休みの日は毎日近くのお寺に行っている。

引っ越してくるまで知らなかったが結構有名なお寺らしい。そんなに大きいお寺ではないがなんだかとても落ち着く雰囲気がある。あと可愛い猫ちゃんが数匹いて、会えるととても癒される。飼い猫かもしれないし地域猫かもしれない。何匹かは耳が切れているので少なくとも元野良猫であったことは分かる。

 

雰囲気が落ち着くのも可愛い猫ちゃんがいるのもあるが、お線香をあげたりお祈りしたりするとほんの少しだけ気分が楽になることに少し前に気がついたのが大きい。私は他人を基本的に信じることができないし、なんなら悪人だと思っている。そして自分の善悪の判断にも自信がない。何も信じられないそんな中で、手を合わせて首を垂れても許されるのはなんとも有難い話だ。どこか遠いところから少しだけ身体を支えられているような、そんな気分になれる。何もできない、ただ待つしかないような状態の時でも、どこかで心を下の方から掬ってくれるような気分になる。

神様仏様のご加護なんてものを信じている訳ではないのにこんな気分になるのはなんでなんだろう。なんとも不思議な話ではある。やっぱり人間はどこかで許されたいという感情を持っていて、それを鎮めてくれるような何かが祈るという行為にはあるのかもしれない。もしくは祈るという行為において何か具体的に祈る対象があるというのが大きいのかもしれない。

 

こういう気持ちを味わうと宗教にハマる人の気持ちもとても理解できる。自分の心のよるべとなるものがあると人間は安心できる。不安になった時に安心を与えてくれるものがあるならそこに縋るのが人間ってものな気もする。私は何か信じられるものというのがないから現状はまっていないだけなのかもしれない。そう思うと私はいつ入信してもおかしくないような気もしてくる。少し怖い話だ。

 

他人を信じられる人は強い。私には怖くてできない。その割には自分の判断基準にも全然自信がない。いい歳こいてこんな人間なのは情けないなあ。毎日なんとか生きていくのに必死だ。明日死ぬかもしれないし、それを引き止めるものはある日突然なくなるかもしれない。明日生きていられますようにと祈らずにはいられない。