色々言われてるけど複雑な気持ちですという話

車椅子ねえ。色々言われてますよねえ。

私を含めて自分の周りには車椅子使用者がいなかったからその大変さは分からない。でも使用者もそれを解除する人にも大きな苦労があることは想像に難くない。最近は車椅子でも利用し易いような施設が増えてきているとは思うが、それでも利用が難しいような場所はまだまだたくさんある。家族の介助も難しい時があるだろう。あまり言いたくない言葉だが便宜上「健常者」という言葉を使うと、健常者の得られる機会に及ばない点はまだまだ多い。それは車椅子だけに限らず、あらゆる障碍でそうだろう。

 

公平に機会を提供出来るのならそれが望ましい。そしてそれのために声を上げることや意見を出すことはとても大切だ。多分だけど今の時代のまともな会社は大多数がそう考えているよ。まともかどうかは置いておいて、私の会社でも出来る改善がずっと模索されているし、大掛かりな仕掛けレベルからちょっとした気遣いに至るまでいろんなことをやってますよ。

でもじゃあ例えば全席車椅子利用が可能なシアターを作れるかとか、介助サービスが受けられる体制を整備できるかって言われるとやっぱ難しいわけですよ。会社が使えるリソースは有限で、その中で事業の継続とか福祉とかいろんなことにそのリソースを分配するんですよ。そして会社としてはまずは事業の継続が第一なわけです。雇っている従業員の生活を背負っているわけですからね。そういう中で少しずつ頑張ってきたのが今の街なんだと思いますよ。権利とかを声高に叫ぶ人たちってリソースの問題を無視して理想をぶん回しているだけのような気がしてしまうんですよ。そしてそれは理想だから傍目には正しいことを言っているように見えるんですよ。

リソースの話はお金だけじゃなくて現場で動ける人員もそうですよ。1つの現場に割ける人員は有限で、さらにそのひとりひとりができる仕事量も有限なんです。人によってやる気とかの差はあるかもしれませんが、やれる範囲でのことはやりますよ(もちろん任意の人間がそうだとは思いませんが)。そういう意味で提供出来るサービスには限界があるし、それを超えて責任を負うべき理由も従業員にはないと思う。安易に手を差し伸べて不測の事態が起こった際の責任の所在が不透明な状態だと客も従業員も幸せにならないと思いませんか。

 

気持ちはわかるし、将来自分も同じように身体が不自由になる可能性が高いんだから、その時に何不自由なく楽しめるような社会だと良いなと思いますよ。負担が本人と家族に大きくかかっていることも分かるし、その状況をなんとかするべきだと思います。でもその全てを求めるのは焼畑農業なんですよ。一時的に実現されても結果的にそれが継続されないと施設そのものがなくなってしまうし、それを企業の利益以外(国の補助とか資産家の寄付とか)で補填し続けるのって現実的に不可能なんです。例えば私は映画館の料金が1000円値上げされても映画をみに行くとは思いますけど、その世界って上映される映画も見に行く客も今とはガラッと変わると思いますし、それで採算が取れるようなものになるのかは分かりません。(ここで社会構造が悪い的政治が悪い的なことを言い出すのは違うと思いますがそのことを話し出すと面倒なので割愛します)

 

意見を否定するわけではありません。でも限界もあって、その葛藤に悩む人間もいるわけです。それだけです。

言いたいことがまとまっていませんがまあそういうことです。すみません。