荷物は恐怖心

人にLINEでメッセージを送ることをとても怖がっている自分がいることに気がついた。

 

聞かないといけないこと。伝言しておくべきこと。他愛もない会話。そのどれもできるなら送信したくない。送ろうとすると動悸がする。何でだ?今までそんなことなかったのに。いや違うか、今までもそうだったけど気付かないフリをしてたのか。あるいは自分の心境に変化があって気がつくようになったのか。

 

大昔、まだ小学生だった頃。給食の時間は近くの席の人たちと机を向かい合わせて、4〜6人で食事をしていた。大体6つくらいの島ができて、それぞれの島が週替わりくらいの順番で給食を取りに行き、配膳をする。その後それぞれの島で談笑とかをしながら食事をする。

私は食事中は基本的に無言だった。あんまり食事中には喋らないような家だったのもあるが、それ以上に私が喋ろうとしなかった。自分ほど気持ちの悪い人間はいないと思っていたから。私があんまり交流のない人間と話しても相手が迷惑しそうな気がしていた。だから大体決まった人としか話さなかったし、中のいい人もそんなに多くなかった。

大学院に入った時に、小学校の頃の友人と再開した。最初は久しぶりにあったことに懐かしさも感じた。だが少しずつ連絡をとって時間が経つと、もう面倒になっている自分に気がついた。向こうは定期的に連絡をくれるのに、だ。自分でも少し引いた。でも私と違って中学校から私立に通っていた彼とは今や持っている感覚が全く違っているんだろうなと思うと、踏み込んで仲良くなろうという気にはなれなかった。

 

就職して東京で入社式があった日、すでに大勢の同期入社の人たちでグループラインが作成されていたことに引いた。一応流れでそこに入ったものの、飲み会のノリとか話の感じがキツすぎてすぐに抜けてしまった。この人たちとは仲良くなれなさそうだと思った。いつまで学生気分なんだよと心の底でせせら笑っている自分がいた。だから必要以上に深く関わろうとはしなかったし、社会人の付き合いってそういうものなんだろうなと思っていた。

 

今になってからわかる。人間は1人でできることなんてたかが知れている。分からないことも増えてきて不安になる。嫌なことが積み重なってしんどくなる。きっと私の周りの人たちはそういうことを経験してきたりして、何となくそれを理解していたのかもしれない。だから人の繋がりの大切さを肌感覚で理解している。だから繋がりは作れる時に作るし、それをそこそこ大切にする。私が自分のことにかまけている間に、同世代の人たちは人間として生きていくために大切なことを身体で理解していたのだ。

 

そう考え至った時に、私は私の思考に恐怖を抱いた。どうやら自分は世間の普通ではない。人によっては自分バカろを見つめるような私の考えや態度を幼いと感じるのかもしれない。私の話すことはうまく伝わらなかったり、誤解されることが多いのだが、どうやら原因は自分にあるんじゃないかと危機感を覚えた。同様に私は相手の発言の芯を捉えることができず、正しい応答ができないことがあるが、それも自分に大きな要因があることが浮き彫りになった。

そう考えると、もう人とコミュニケーションをとるのが怖い。私の入るやりとりには齟齬が生じてしまうし、私はそれに気がつくのに通常よりも多くの時間を要してしまう。会話ならその場で聞き直したり、自分の言葉を噛み砕いたりできるが、文面のやり取りはそうもいかない。こちらの温度感も伝わらない、相手の表情も見えない。だから怖い。人との関係なんかどうでもいいと思えるなら良かったのだが、私はそんなに強い人間ではなかった。周りからどう見られているかを気にしてしまう自意識過剰くんだ。

 

私だって頑張りたい。でもどうしていいのか分からない。頭の中の「なぜ?」が消えてくれない。私の1月はそれで終わった。不安定なまま2月が始まった。明日も会社だ。やるしかない平日がまた始まる。