イーロンなんとかしてくれ

私はどうやら13年くらいTwitterをやっているらしい。アカウントを作った当時はまだガラケーだったのは覚えてる。

最近はもう可愛いものとかバスケとか限定的なエンタメコンテンツだけ見るようにしてほぼ呟きもしていない。周りにどう見られるかよりも自分が何を感じるかの方が大事だし面白いと思うようになってからSNSとの距離感が変わったように思う。

 

ただまあ適当に距離をとっていてもいろんなツイートはサジェストされてくるものだ。今はポストって言うんですかね。昨日今日くらいは「自炊の方が安上がりとか言うやつ」と「電車で足広げて座るメンズ」の話題がたくさん流れてきた。どんだけやってんだよという話題だ。

 

自炊に関しては「自炊は1人分ジャストではなく多い量を安く作る方法で、週末に作り置きをするとかそう言うのができる人にはいい。そうでなければ安い弁当とか買って食べるのが楽だしいいケースも多い」し、電車で足広げてるのは大体デブか配慮できないやつが大半なだけですよ。それぞれの状況とか個人差で大きく異なるポイントが多いのに一元的に語ろうとしてたり、加えてなんか相手を貶めるような言い方するのがおかしい。しょーもない。

 

個人的な感覚だが、SNSって身内の距離感の付き合いをちょっとだけ外側に拡張するくらいの感覚で使うものだと思っている。いろんなところに繋がってみようとするのは好きにすればいいが、それをしているあなたはちゃんと嘘を嘘と見抜けるんですよね?それができないなrインターネットなんてやめた方がいいですよと言う気持ちだ。今のSNSには戦略性が必要だと思うし、相手のそれを見抜く・感じとる感覚を持つことはもっと必要なはずだ。

 

無論、クリエイターにとっては作品を世に出すきっかけが増えてたりするし、いい点も大いにある。ただ拡大に伴って求められるものもあるよな。楽しむためにも勉強しような。

 

 

バスケがしたい

中高とバスケをやっていたこともあってバスケが好きだ。プレイするのも好きだし、プロとかインターハイの試合を見たりするのも好きだ。

部活をやっていた頃はスマホなんかもないし、プロの試合を見たりするのも結構ハードルが高かった。バスケの雑誌を読み漁ったりするのが情報収集の基本で、練習に遊びに来てくれた先輩にテクニックを教えてもらったりするのが中心だった。今だとYouTubeで技とかワークアウトの動画も簡単に視聴できるし、プロの試合も結構テレビで見れたりする。かなりいい時代になったもんだ。

 

NBAの情報なんかもテレビやSNSを通じてたくさん手に入る。特に今は八村もナビもプレイしているし、日本でもかなり注目度が上がっている。高校生の頃にNBAの試合を見るために新聞のテレビ欄を舐め回すように見てたのを思い出す。深夜帯にたま〜にやってたりしてて、それを見つけては録画して、何回も何回も見ていた。コービーやアイバーソンに圧倒されてたなあ。

 

大学生になってからはバスケとは距離ができてしまった。大学の勉強が楽しかったのもあるが、サークルでダラダラとやってるバスケの雰囲気がどうしても好きになれなかった。やるなら勝ちたいし上手くなりたい。でも体育会の部活に入るほどの覚悟はなかった。

 

最近、身体を動かしたいのもあってバスケがやりたくなってきている。でもやろうと思うとコートを借りたりしないとできないのが現状だ。屋外でもリングがある公園とか昔はあった気もするが最近はめっきり見なくなった。アメリカみたいに街中にバスケのコートがあればいいのにな。地方自治体の皆さんよろしくお願いします。

 

まあないもんは仕方がない。とりあえず少し暖かくなってきたらランニングから始めようかな。

 

頑張る理由はどこにあるんだ

うつ病になるのは忙しい時ではなく、なんのために頑張っているか分からなくなる時と誰かが言っていた。わかる。とてもわかる。

そして自分と、自分の周りで悩んでいる人がすぐに思い浮かぶ。

 

忙しさは生きるのに必要なことだとも思う。体力の限界をゆうに超えて仕事をするとかは良くないが、忙しさを感じるときってなんだかんだドーパミンが出てる感じもするし、その間は悩んでる暇もなくて、擬似的に悩みから解放されるような感じもある。失恋したらバリバリ仕事するみたいな古典的なパターンなんかはその典型だろう。心の中の問題が根本的に解決するわけではないけど、それを見ない時間を作ることができて、問題から離れるという状況を作ることができる。それがうまくいくことも多々あるだろう。

 

でも忙しさが限度を超えると、なぜこんなに忙しいんだ、なんで自分はこんなに頑張らないといけないんだみたいな思考にもなるだろう。忙しさを手段にできているうちは良いが、それを見失なうと辛さが支配的になってしまう。多分。

 

努力をするのは結局は自分のためだ。頑張りを「他者のため」というと周囲からは優しさと見られるかもしれない。でもそれは違う。他者への献身は結果的に自分のためのものだ。理由は人それぞれあるだろうが、そこは共通しているものなんじゃないかと思う。というよりそう整理しておく方が自分のメンタルを守れると思っている。

でもそんな風に常に振る舞えるわけではない。理由を外に求めることで救われる場面もたくさんあるだろうし、その方がいいことは多いんだろう。そのときはその相手との信頼関係が重要になってくる。相互依存的になるのはあまりよろしくないように思うが、それでも負担を外に出すことができるのは、たとえ小さな内容だとしても大きな効果があるだろう。

 

だから信頼は大切なんだ。それを失うことは頑張る理由を奪うことなんだ。忙しさなんかよりもずっとダメージが大きい。

こんな簡単なことなのに私は正しく認識できていなかった。いや、自分を守るのに必死で、そのことに目を合わせないようにしていたのかな。自分が他者を信頼しないのはそのダメージからの逃避なんだ。自分のことも理解できていなかった。自分は周りから人がいなくなることを何よりも恐れているくせに、その痛みを恐れて周りを信頼しない。とても歪な人間だこと。

 

もっと若いうちにこの感情と向き合わないといけなかった。そのツケを今になって支払っているのだろう。膨れ上がった利息はかなり大きい。

 

 

部屋の用意

急拵えで作った自室がようやく形になってきた。

知り合いに多分に助けていただいた。本当に感謝しかない。あとは給料が入ったタイミングで少しずつ家具を置き換えていく予定だ。

 

とりあえずで用意したデスクと椅子が少し難儀なのでそこは何かしらに買い替えたい。最近はニトリで昇降デスクとかL字デスクが買えたりするみたいで本当にすごいなと思う。椅子はちょっと分からない。ゲーミングチェアっていいんだろうか。まあ椅子についてはクッション追加とかすればそれでいいかなとも思う。

 

部屋のレイアウトって本当に難しい。狭い部屋でも綺麗にまとめている実例集みたいなのをたくさん調べてみたが自分ではそんなふうにできる気がしない。というか今もなっていない。色味とか家具の質感の問題とかもあって統一感とかがないのが大きい。だって手頃なやつを揃えるとどうしても統一感は出にくいからね。

 

誰かを部屋に呼ぶわけでもない、単に自己満足と自分の快適さを求めるだけの部屋だ。やっぱり自分の好きなようにやってやりたい。まあ昼間に部屋にいることは少ないわけだが。まあ少しずつやっていこう。

道程

昔と今では仕事に求められるスキルが桁違いだ!という言説を椎橋ば耳にする。

確かにそれはそうかもしれない。技術が発達すると、「それができる=強みになって、できることが長所になる」場合と「それができる=当たり前で、むしろできない奴が勉強が足りてない」という場合が出てくる。パソコンスキルみたいなところは近年ではもう後者のものだろう。最先端の科学技術なんかはいつでも前者になりうるものだと思う。

 

ただそれでも、やっぱり自分の親世代でずっと仕事を続けてきた人には本当に頭が上がらない、敵わないなと感じる。私はもうしんどい。でもたとえば自分の親は、それでも歯を食いしばって働き続けて、なんなら子供を育ててきたわけだ。無論そこには未来への希望があるとか、そういう背景もあるだろう。今の時代は未来への希望を明るく持つことはなかなか難しい。それを差し引いても何十年も働くことってすごいことだと思う。

 

やりたいことで生きていくとか、やりたい仕事を見つけることが大事だというフレーズを学生の時に何度も聞いた。今はそういう時代だと。でもそんな言葉を聞くたびに私は疑問だった。20代の学生に、自分のやりたいことなんて分かるのかと。少なくとも昔の自分は分からなかった。だから仕事の内容とかではなく、人柄だとか、給与面と勤務地の条件とか、そういう仕事の内容が直接関係ないところで会社を選んでいた。

 

それが正解だったのかは分からない。実際、今の私は会社でしんどくなってしまっている。でもなんとか仕事を続けることはできている。そしてその中でなんか面白そうだと思えるトピックスをやっと見つけることができた。これぐらいのことを学生のうちにできていれば、やりたい仕事に就くような就職活動ができていたのかもしれないし、逆に言えば学生のうちのそれぐらい頑張っていろんなことをやっておけということだったのかもしれない。

それができない凡人はとりあえず目の前の仕事を、与えられる仕事を全力でやるしかない。何でもかんでもやってみて、その中で楽しみを見つけたりできて、それが仕事になっていく。今はそういうふうに少しは思える。だから親の偉大さをより強く感じる。こんなに立派なことってないよなと。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできるとは本当にその通りだなと頷ける詩だ。自分がやってきたことだけが自分の道になるんだ。教科書で読んだときは分からなかった詩が、今になって私に突き刺さってくる。

 

ああ自分もなんだかんだ人生やってたんだな。

 

 

自責と他責

原因を内側に求めるとどこかで限界がきて無理になってしまう。逆に外側に求めると楽ではあるが根本的に問題が解決しない、むしろ酷くなることすらある。要は塩梅が大切なんだとは思うが、そんなにいい感じに処理できるほど私のCPUは高性能にはできていない。

 

他責的な思考は良くないものと言われる。それはそう。ただそれを身につけて慣れてしまう人も一定数存在している。それは親の教育だったり、周囲からのダメージを避けるためとかで身についていく仕草なのかもしれない。誰が悪いのかと言われて完全に自己責任ですねと言ってしまうのもちょっとかわいそうな気もする。大人になると流石に厳しいとは思うが、なんとかならんのかなとは思う。

 

私は逆に自責的に考えてしまうタイプだが、それはそれでどこかで認知が歪んでしまうんだと少し前に認識した。そこに気がついて最近はようやく少し楽に考えることができるようになった。自分の中の歪みは自分だけではなかなか気がつけないから時間はかかるだろうが、少しずつフラットな人間になれるように頑張っていこうと思っている。

 

自分が何か言われているわけでもないのに、自分が責められているような感覚になることが昔からあった。良い方向に考えれば、そういう風にNGなものを学ぶことができていた。悪く言えば自意識過剰だった。世間はそんなに自分を見ていないし、もっと適当なんだ。今も理屈では分かっているがなかなかそういう思考に切り替えるのは難しい。自分の歪みが治ることはないのかもしれない。そんな気もしてくる。

 

人間は歪んでいるものだ。それは仕方ない。自分が他者と関わるときは少なからずそう思っている。でも自分の歪みは許されない気がする。いや、許されないというより許せないのか。自意識過剰なのと完璧主義なのはセットでありがちな性質なのかな。それがセットになると常に自己嫌悪があって本当に良くない。人間は苦しい。そんな時に他責思考の人間が目の前を通り過ぎて行って、少しだけ羨ましさが生まれる。これも性格が悪い。ほぼ嫌味だ。

 

なんとかなれ〜〜

 

 

 

喫茶店の夢

しばらくカフェインを避けるためにコーヒーを飲まないようにしていた。ただあんまり今の自分にとっていい兆候が見られなかったのでやめることにした。

特に最近は仕事をしていても眠くなることが増えてきた。夜にうまく眠れていないことが原因だと思うが、仕事に支障が出てくるのは困った。そんなこともあり1日2杯までとしてコーヒーを普通に飲むことにした。

 

好きで使っていたコーヒー用具を引っ張り出して、朝コーヒーを淹れた。湯気とともに立ち上る香りがとても落ち着く。やっぱりいいなあ、1日が始まる感じがするなあ。無理して毎日飲まなくてもいい。自分の自由な時間を楽しんでいるような感覚が湧き上がってくる。

 

いつかコーヒーを淹れることを仕事にしたいなという気持ちがある。喫茶店とかそういうやつ。仕事を退職したらシンプルな喫茶店でひっそりと仕事をしながら過ごしたい。いつの日からかそんな風に思うようになった。昔は出家したいとか言っていた気がする。根本的なところはあんまり変わっていないような気もする。ちょっと俗っぽくなっただけかも。

 

最近はタバコとコーヒーを楽しめるような店もめっきり減った。世間が禁煙の流れだから仕方がない。そんなお店をやれたらいいな。まあちゃんと分煙するとかそんな感じにする必要はあるか。でも喫煙者が喫煙を楽しめるようなスペースにしたいな。リラックスして葉巻とか楽しみながらとかね。そんな風にできるといいな。

 

それで仕事が終われば猫と過ごしてね。そんな風に余生を過ごせるようにしたいね。そんな風にできるように頑張ろう。